劇場版アニメ感想:遊戯王
THE DARK SIDE OF DIMENSIONS
ツイッターにもちょろっと書きましたが、先日劇場版遊戯王を見てきましたので、今日はその感想を書きたいと思います。
基本的にネタバレにはまったく配慮しないで好き放題に語りまくる内容になるので、
まだ見てなくてネタバレを気にする人は、早めに離脱することをオススメします
まずこの映画ですが、遊戯王の初代シリーズが完結した後の後日談という形式の話になってますね
初代の最終回でアテムが冥界に帰った後、遊戯たちがどういう日々を過ごしているかということが語られるわけですが…
そんな今回の話の主要人物はこの3人。遊戯、海馬、そして新キャラのディーヴァになります
主にこの3人を中心にして話が展開していくわけですが、明確な目的を持って話を動かそうとするのは
海馬とディーヴァの2人ですね。こいつらにはそれぞれ別の思惑があって、
それを達成しようと行動に出た結果、かなりの大事件となって遊戯が巻き込まれていくという内容になってます
まずはディーヴァの方なんですが、こいつの思惑には意外にもシャーディーが深く関わってるんですよね
シャーディーといえば、原作の初期の頃にちょくちょく登場したよく分かんない奴って感じでしたが
今回の映画で、そんなシャーディーが元々どんな奴かというのが詳しく語られたと思います
そして海馬の方については、こいつの思惑については実にシンプルで
「なんとしてもアテムともう一度デュエルしたい」という気持ちを原動力にして動いてるっていうね。
冥界のアテムを現世に呼び戻すために、あの手この手を使ってとことんまで色んな手段を試すってわけですよ
具体的に言ってしまうと、自分の記憶を元にしてバーチャル映像のアテムを作り出したり、
千年パズルを復元させて遊戯にアテムを憑依させようとしたり、
現世と冥界を繋ぐマシンを開発して、アテムに会いに冥界へ出向いたり…とにかくその熱の入れようは凄まじいものがあります
そう、この映画っていうのはね、ある意味で
海馬とアテムの遠距離恋愛モノの映画とも言えるんですよ(えー
ひたすらアテムに片思いしてる海馬が、あの手この手を使ってアテムに会おうとするっていうね…
それぐらいアテムにご執心なわけですよ我らの海馬社長は。別にアテムじゃなくても、遊戯だって十分強いデュエリストなんだから
そっちで満足すればいいじゃんと思うわけなんですけど、それでも海馬は満足しないわけなんです。
いい加減あきらめて満足してくれ海馬社長!
|
どうやったってオレたちは
アテムに会うことはできない!
だったら…
遊戯で満足するしかねぇ!! |
と思うわけなんですけど、それでも満足してくれないんだよなぁ(えー
ここでひとつ注意しておきたいのは、今回の映画の海馬は
原作版の海馬であって、アニメ版の海馬ではないということなんですよね
そう、実は原作版とアニメ版で海馬の描写には違いがあるわけです。具体的にどう違うかっていうと
アニメ版では、アテムが最後に遊戯とデュエルした”戦いの儀”に海馬も立ち会って、
遊戯がアテムに勝利するシーンや、アテムが冥界に帰っていく場面を見守っているんですが、
だけど原作では全然そんなことはないんですよ。戦いの儀には海馬は一切出てきていないんです
なぜそうなったのかというと、原作の海馬はバトルシティ編が終わったその時に、
世界中に海馬ランドを作るという野望のために、
ブルーアイズジェットで海外へと旅立っていったんですね
そう、原作では海馬の物語は、バトルシティ編が終わると同時に結末を迎えたわけなんですよ
これからは海外の新天地を目指して、自分の野望実現のために邁進するっていう形でね
その後に行われた戦いの儀っていうのは、遊戯とアテムのための物語であって、
そこに海馬は一切絡んできていなかったんですよ。だから原作の海馬は、アテムがどういう経緯で冥界へ帰っていったのかっていう
その流れを全然知らないわけなんですね。だからこそ、アテムが自分を置いて去っていったということに全然納得していないわけです
なにしろ、海馬が海外へと向かう時のアテムとの会話がこれ↓ですからね
「遊戯!オレたちの戦いに終わりはない!!」っていう風に、
海馬はアテムとの戦いが終わったとはまったく思っていなくて、
今後もアテムと何回でもデュエルして競い合っていきたいと思っていたわけです
でもそんなアテムが突然冥界へと帰ってしまったわけで
それを知った海馬は置いてけぼりを食らった気持ちなわけです。「なぜオレを無視して勝手に冥界なぞに帰っていったんだ」と。
だからこそ、首根っこ引っ掴んででもアテムを現世に引きずり下ろし、再びライバルとして復活させるのが
映画での海馬の目論見なんですよね。
アテムのことをそれだけ意識している海馬ですが、じゃあ遊戯のことはどう思っているのかというと、
それについては完全にアテムを入れるための単なる入れ物としか思ってないんですよね
実際にそんな感じのセリフを遊戯に言い放つシーンもあったし。「お前はしょせん入れ物に過ぎん」みたいなね。
やはり原作の海馬は、戦いの儀で遊戯とアテムがデュエルした場面を見ていないだけに、
遊戯の実力がどれほど高いかということを全然認めていなかったようで…
そんな海馬に、「もう一人のボクは死んだ!もういない!」ということを知らしめるために
デュエルを開始する遊戯。この遊戯vs海馬のデュエルについてですが、
「どちらが勝ったのか」という解釈が分かれるポイントですよね
決着の瞬間、遊戯の攻撃で本来なら0になるはずだった海馬のライフポイント。
それがなぜか100でピタリと止まり、その瞬間にデュエルが終わってしまうという。
あれについては、人によってどう受け取るかが違ってくる場面ですよねー
「あれは中断のせいでたまたま止まっただけ。海馬のライフは0になるのが正しくて遊戯の勝ち」とか
「あれは海馬が執念でライフを止めた。海馬が負ければ”アテムはもういない”と認めることになるので、
それだけは絶対に認めないという海馬の気持ちの現われ」とか
「あれは海馬のリバースカードの効果で止まった。海馬にはまだ奥の手があり、遊戯を倒すカードが残っていた」とか
よく聞くのはそんなところだと思います。海馬のライフが止まった理由は何か、そして勝ったのはどちらかということが
人によって全然違うわけなんですが、俺がどう思ったかというと
あれは海馬のリバースカードの効果で止まった。
海馬にはまだ奥の手があり、本質的な勝者は海馬というのが俺の解釈ですね
なぜならこのデュエルが終わった後、海馬は「貴様もまた誇り高きデュエリストだった。さらばだ遊戯」という言葉を残して
アテムに会うために冥界へと旅立ってしまうからですよ
俺が思うに、遊戯が海馬の一歩先を行って勝利したというなら、
海馬は冥界なんて目指さずに遊戯へのリベンジを誓うと思うんですよ
実際、海馬はこれまでアテムに負けるたびに、アテムへのリベンジを誓って戦い続けてきたわけだし
それが今回は、「貴様もまた誇り高きデュエリストだった(にっこり)」と笑って遊戯を称えてるっていうのが
海馬が負けた時の反応だとは考えにくいなあと思って。そもそも遊戯との戦いの後、
結局はアテムのことを諦めきれずに冥界へ向かうっていうのも、
海馬を本当の意味で満足させられる相手は、やはりアテムしかいないってことだと思うんですよ
そして海馬を満足させるとはどういうことか、個人的にそれは、最後まで海馬の一歩上を行くデュエルをするってことだと思います
なぜそう思うかっていうと、今回の映画で海馬がバーチャルのアテムを作り出してデュエルするって場面があったわけじゃないですか
バーチャルアテムって書くとなんか安っぽく感じるけど、実際に見てみると本物のアテムとほとんど遜色ないくらいよくできた奴で
強さにしても過去のアテムと変わりなくて、実際にデュエルした海馬をあと一歩のところまで追い詰めるんですよね
ただ、海馬にしてみれば、過去のアテムから進歩がなく、
あと一歩のところで自分を上回ることがない。こんなアテムはアテムじゃないという風に
バーチャルアテムを打ち負かした後に大激怒してしまうんですよね。「こんな奴を倒して何になる!!」とか言って…
つまり海馬にとって、いくらアテムと同じ見た目をしていて、アテムに匹敵する力を持っていたとしても、
自分を上回ることのない奴には用はないと思っているわけです
そういう意味では、遊戯も結局バーチャルアテムと似たような結末になってしまったのかなと俺は思うんですよ
海馬のライフが100残ったのはそういうことで、遊戯の決死の攻撃もわずかに海馬に届かなかったということなのかなと。
遊戯も海馬とほぼ互角に戦えるところまできているんだけど、互角とは言っても一歩上回ることはできなかったというのが
あの最後のライフ100を表しているんじゃないかと思います。
海馬にとってはその「一歩」が重要であり、
その一歩を埋められる相手はアテムしかいないと思って、冥界を目指したのかなと思うわけです
そんなわけで、バーチャルアテムと遊戯は海馬とのデュエルの結果、割と似たような負け方をしたと思うわけですが
デュエルが終わった後の海馬の態度はまったく正反対でしたよね。
バーチャルアテムに対しては失望して大激怒し、遊戯に対しては穏やかな微笑みを浮かべて
「貴様もまた誇り高きデュエリストだった」と実力を認めるっていう…
これについては、デュエルする前のスタート地点の差かなと思っています。
海馬にとってバーチャルアテムは、アテム本人を再現するために生み出したものであり、
最高のライバルとして期待していたら、そこに届かなかったので激怒した
といったところじゃないでしょうか
一方で遊戯については、デュエルの前は対戦相手としてまったく期待していなかったというか
なにしろただの入れ物としか思ってなくて、デュエリストとすら思っていなかったくらいだから
自分と互角のデュエルをした遊戯を見て、さすがに入れ物呼ばわりしたのは失礼だったと
敬意を表して海馬もあの言葉を送ったんじゃないでしょうか
だけどそれでも、本当の意味で海馬を満足させるのはアテムしかいなかったと。
だからこそ海馬は、「さらばだ遊戯」と遊戯に別れを告げて、冥界へと向かったんだと思います
そして実験段階の危険なマシンを使って冥界へと出向き、ついにアテムと再会する海馬でしたが…
あのラストシーンもまた、人によって解釈の分かれるところだと思うんですよね。
アテムと再会した海馬はあの後生還したのか、それともあのまま死んだかってことです
俺の意見としては、海馬はあのまま死んだと思います
なんでかっていうと、冥界へ向かうためのマシンって、宇宙から地上に向けてギューンと急速落下するものだったじゃないですか
そして海馬がそのマシンに乗ろうとした時、モクバが「だめだよ兄サマ!そのマシンは危険だよ!」って
さんざん海馬を止めようとするわけじゃないですか。でも海馬はその静止を振り切って、
「モクバ、後のことは頼んだぞ…」って遺言のような台詞を残して冥界へと向かうわけじゃないですか
そして最後、海馬とアテムが再会したあの瞬間、「ドーン!!」という音が鳴り響いて画面が暗転して物語が終わるっていう
俺はあのドーンという音は、海馬の乗ったマシンが地面に激突して、海馬が死んだ時の音なのかなと思いました。
あれだけ危険だって言われてたわけだし、地上に向かって急速落下するマシンだし、
なんらかの不具合が起こって地上に激突する結果になってしまったのかなと。
ただ、それで海馬が死んだとしても、バッドエンドの話だとは思わないんですよ。
なぜなら海馬は、自分の人生すべて使い切ってでもアテムに会いたいというぐらいに
ひたすらアテムに会うことしか考えていなかったから。もはやアテムに再会することが海馬のすべてだったから。
仮にあのラストシーンで海馬が死んだとしたら、海馬は現世に戻ることなくそのまま冥界に留まって
アテムと今後ずっと一緒にいられるんじゃないでしょうか
そう、原作で海馬の言っていた「遊戯!オレたちの戦いに終わりはない!!」という言葉が
あそこで海馬が死ぬことによって実現すると思うんですよ。今後アテムとは冥界でずっと競い合っていけるわけで。
つまりこの映画は、アテムが冥界に帰ったことで、「オレたちの戦いに終わりはない!」という気持ちを裏切られてしまった海馬が、
それを再び現実のものにするために、現世でやれることを全部やって、それでも実現することはなかったから、
最後は冥界でそれを叶えて、現世で死んでも冥界でずっと「オレたちの戦いに終わりはない!」とアテムと競い合っていくっていう
そういうストーリーなのかなと感じました。死ぬと言っても不幸じゃなくて、海馬にとってはこれが幸福だとも言えますしね
ただまあ正直、相当ぶっとんだ解釈だなと自分でも思うので、
視聴者みんなが俺と同じ意見とはまったく思わないし、「いやいや海馬は普通に生きてるでしょ」って言う人もいっぱいいるだろうし
俺のこの感想はあくまでも俺個人がそう感じたってだけなんで、他人に対して押し付ける気はまったくないから
俺と違う意見の人もあんまり気にしないでください。海馬vs遊戯の結末にしても、人によって解釈が分かれると思うから
そういう解釈の違いを楽しむのもこの映画の醍醐味だと思うんですよね。
(C)高橋和希 スタジオ・ダイス/2016
劇場版「遊☆戯☆王」製作委員会
|